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そこにいなかった人たち

あなたはそこにいた。間違いなく。GPS がそう言っている。写真のタイムスタンプもそう言っている。SNS の投稿もそう言っている。でも、あなたはそこにいたのだろうか。 スマートフォンを構えた瞬間、あなたはその場所から静かに退場している。物理的にはそこに立っている。でも、意識はもう「今ここ」にはない。フレーミング、露出、アングル、そしてその写真を誰に見せるか。あなたの頭はすでに未来にいる。まだ存在しない聴衆に向かって、まだ起きていないリアクションを想像している。 現在は、あなたの手からすり抜けていく。 観察者は参加者になれない これは別に新しい話ではない。スーザン・ソンタグは1977年の時点で、写真を撮ることの本質をこう見抜いていた。写真とは「捕獲された経験」であり、カメラは「意識の貪欲な気分における理想の武器」だと。撮影するとは、被写体を「自分のもの」にすることであり、それは世界との関係を「知識のようなもの」に、つまり「権力のようなもの」に変換する行為だと。 ソンタグの言葉を借りれば、観光客の経験は「立ち止まり、写真を撮り、

By Sakashita Yasunobu

あなたはどこにも住んでいない

あなたには住所がある。郵便が届く。鍵を回せばドアが開く。布団があり、台所があり、光の入り方に見覚えがある。だがそこは「家」だろうか。あなたはそこに「住んでいる」だろうか。それともただ、寝る場所があるだけだろうか。 「家」という言葉は、思ったよりも重い。そして思ったよりも捨てがたい。 住まうということ ハイデガーは1951年の講演「建てる、住まう、考える」で、「建てる bauen」という言葉の語源を探った。古高ドイツ語の buan は「住まう」を意味する。そしてドイツ語の ich bin(私はある)は、もともと「私は住まう」を意味していた。つまり「存在すること」と「住まうこと」は、言語の最も深い層でつながっている。 ハイデガーにとって、住まうとは単に屋根の下にいることではない。それは大地と空のもとで、死すべき者として世界に居ることだ。

By Sakashita Yasunobu

持っていたつもりだった

あなたのスマートフォンを手に取ってほしい。あなたはそれを買った。代金を払った。箱を開け、フィルムを剥がし、初期設定を済ませた。だからそれはあなたのものだ。そう思っている。だが中に入っている音楽はあなたのものではない。電子書籍もあなたのものではない。アプリはライセンスに基づいて一時的に使用を許可されているだけで、提供者が気を変えれば明日には消える。あなたが「持っている」と感じているものの大半は、あなたのものではない。 そもそも「持つ」とは何か。この問いは思ったより厄介で、思ったより古い。 労働を混ぜる ジョン・ロックは『統治二論』第五章で、所有権の起源を説明しようとした。神は地上のすべてを人類に共有のものとして与えた。ではなぜ、ある土地やある果実が特定の個人のものになるのか。ロックの答えはこうだ。すべての人間は自分自身の身体を所有している。身体の労働、手の働きは、その人固有のものである。だから自然の状態にあるものに自分の労働を混ぜたとき、それは自分のものになる。リンゴを木からもいだ瞬間、そのリンゴはあなたの所有物になる。あなたの労働が加わったからだ。 この論理は一見すっきりして

By Sakashita Yasunobu

配られたカードを見ろ

あなたは自分の人生を「自分で切り拓いた」と思っている。 けれど、少しだけ巻き戻してみてほしい。あなたが最初に下した「決断」は何だったか。母語を選んだか。生まれる国を選んだか。親の年収を、達伝子の配列を、生まれた世紀を、選んだか。 何ひとつ選んでいない。そして、その「何ひとつ選んでいない」が、その後のすべてを規定している。あなたの努力も、成功も、価値観も、この記事を読んでいるという事実も、すべてその初期条件の上に立っている。 この記事は「生まれ」という、誰もが経験し、誰もが選ばなかった出来事について書く。答えは出ない。ただ、引き当てたくじの中身を、もう少し丁寧に見ておきたい。 くじを引く手はなかった ハイデガーが「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ構造については、別の記事で書いた。私たちは自分の存在の出発点を選んでいない。それは人間の存在そのものの構造である、と。 ここでは、その被投性の具体的な中身に踏み込みたい。「投げ込まれた」という構造を哲学的に記述することと、投げ込まれた先の中身が人生をどれほど規定するかを見つめることは、似ているようでまったく違う。 被投

By Sakashita Yasunobu

信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。

By Sakashita Yasunobu

信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。

By Sakashita Yasunobu

あなたは昨日と同じことをする

今朝、あなたは何をしたか。 目が覚めて、スマホを見て、歯を磨いて、服を着た。どれか一つでも「今日初めてやること」だっただろうか。たぶん、ない。明日も同じことをする。明後日も。そしてそのことに、ほとんど意識を向けない。 私たちは習慣の生き物だ。これは殺し文句ではなく、記述だ。一日の行動の大半は習慣であり、その習慣は意識的な決定を経由しない。問題は、それが何を意味するかだ。習慣とは自由の放棄なのか。それとも、自由の条件なのか。 徳は繰り返しから生まれる アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第2巻で、習慣について最も有名な主張を行った。徳(アレテー)は知識ではなく、習慣(ヘクシス)である。 「私たちがあることをする前に学ばなければならないことは、それをすることによって学ぶ」。建築家は建てることによって建築家になり、竪琴弾きは弾くことによって竪琴弾きになる。同様に、正しい行いを繰り返すことによって正しい人になり、勇敢な行いを繰り返すことによって勇敢な人になる。 ここには、プラトンへの明確な反論がある。プラトンは徳を知識の問題とした。「善」とは何かを知れば、人は善く振る舞う。悪とは

By Sakashita Yasunobu

線はどこにもなかった

あなたは今、何かの「内側」にいる。 部屋の中。国の中。言語の中。「自分」の中。どこを見ても、境界がある。内と外を分ける線がある。しかし、その線を指で触ろうとすると、何も触れない。近づけば近づくほど、線はぼやけていく。 私たちは線を引くことで世界を理解する。昼と夜、善と悪、生と死、自己と他者。分けることが、理解することだと信じている。しかし、分けられないものを分けているのだとしたら、その「理解」は何なのか。 砂の一粒 ギリシアの哲学者エウブリデスが提起したとされるソリテスのパラドクス(砂山の逆理)は、境界の不在を最も明快に示す。 砂山がある。そこから一粒を取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。この推論を繰り返すと、最後の一粒になっても「砂山」であることになる。あるいは逆に、一粒は砂山ではない。二粒も砂山ではない。この推論を繰り返すと、百万粒あっても「砂山ではない」ことになる。

By Sakashita Yasunobu

名前だけが残る

あなたの名前は、あなたではない。 けれども、あなたの名前がなければ、この世界にあなたの居場所はない。生まれ落ちた瞬間、誰かがあなたに音の列を割り当てた。あなたの同意もなく、あなたの趣味も聞かず、あなたがまだ何者でもないうちに。それが名前だ。あなたはそのラベルの下で一生を過ごし、そのラベルの下で埋葬される。もっとも、ラベルの下には最初から何もなかったのかもしれないが。 固定された影 1970年、ソール・クリプキはプリンストンの講義室で、名前について奇妙なことを言った。名前は「固定指示子(rigid designator)」である、と。 あなたの名前は、あらゆる可能世界を横断して、同じ対象を指し続ける。あなたが医者になった世界でも、犯罪者になった世界でも、生まれなかった世界でも(その場合は何も指さないが)、「あなた」の名前は「あなた」を追いかける。記述によって人を特定する従来の考え方を、クリプキはひっくり返した。「アメリカ合衆国の第37代大統領」という記述は、別の可能世界では別の人を指すかもしれない。しかし「ニクソン」という名前は、どの可能世界でもニクソンを指す。名前は記述の束で

By Sakashita Yasunobu

余白が語りはじめる

完成した作品など、どこにもない。 何かが書かれるとき、書かれなかったものがある。何かが描かれるとき、描かれなかった部分がある。何かが語られるとき、語られなかった沈黙がある。私たちは書かれたもの、描かれたもの、語られたものに注意を向ける。当然だ。そこに意味があると思っている。だが、意味は本当にそちら側にあるのだろうか。 もしかすると、余白のほうが雄弁なのかもしれない。 塗り残された場所 長谷川等伯の『松林図屏風』を見たことがあるだろうか。六曲一双の屏風に、松林が描かれている。だが「描かれている」という表現はすでに正確ではない。画面の大部分は何も描かれていない。霧か靄か、あるいはただの紙の白さか。松の幹と枝がぼんやりと浮かび上がり、そしてまた霧の中に消えていく。この絵の核心は、松が描かれている部分にはない。描かれていない部分にある。 日本美術には「間」(ま)という概念がある。空間的な隙間、時間的な間隔、あるいはそのどちらでもない何か。建築における柱と柱のあいだ。音楽における音と音のあいだ。能舞台における動きと動きのあいだ。「間」は単なる空白ではない。空白そのものが表現の一部とし

By Sakashita Yasunobu

隠すものなどなかった

人類最初の感情は、恐怖でも喜びでもなかったらしい。 創世記によれば、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後、最初に起きたことは「裸であることを知った」ことだった。痛みでも凍えでもなく、羞恥。自分の身体が見られているという事実に耐えられなくなった。そして、葉を纏った。 この物語を宗教的な寓話として読むか、人類学的な原型として読むかは、どちらでもいい。重要なのは、この物語が提起する問いだ。裸であることは、なぜ恥ずかしいのか。私たちは何を隠しているのか。そして、隠すことは本当に可能なのか。 裸を知った日 創世記2章25節はこう記す。「人とその妻は二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。そして禁断の果実を食べた後、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った」(3章7節)。 この「知った」という動詞が鍵だ。裸は最初からそこにあった。変わったのは身体ではなく、身体に対する意識だ。つまり、羞恥は身体の属性ではなく、意識の属性だ。裸そのものが恥ずかしいのではない。「裸であることを知っている」ことが恥ずかしいのだ。 ここには、深い構造がある。羞恥は自己意識を前提とする。自分を

By Sakashita Yasunobu

偶然はどこにもない

あなたがこの文章を読んでいるのは偶然だ。あなたが生まれたのも偶然だ。あなたの両親が出会ったのも偶然で、その両親の両親もそうで、どこまで遡っても偶然しか見つからない。 それなのに人は、偶然の連鎖を後から振り返って「運命だった」と語り直す。でも、人生に筋書きはない。 もっと厄介な問いがある。偶然が「ある」とは、一体どういうことなのか。 必然の影で 哲学の歴史において、偶然はつねに必然の残り物として扱われてきた。 アリストテレスは「偶然(テュケー)」と「自発性(アウトマトン)」を区別したが、どちらも副次的なものだった。本来の原因があり、それが逸れたとき、結果として偶然が生じる。偶然それ自体には存在論的な地位がない。何かが起きた「理由」が見つからないとき、そこに貼られるラベルにすぎない。 スピノザはもっと端的だった。自然のうちには偶然的なものは何もなく、すべては神の本性の必然性から一定の仕方で存在し作用するように決定されている(『エチカ』第一部定理二九)。偶然とは、人間の知性の限界が生み出す幻影にすぎない。知れば知るほど必然が見え、偶然は消える。 ライプニッツの「充足理由律」も

By Sakashita Yasunobu